戦後、生命保険はどう家庭に広がったのか - 「生命保険大国」日本をつくった営業職員 -
- 23 時間前
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前回は、明治時代に西洋から生命保険という仕組みが伝わり、日本で近代的な生命保険会社が誕生していった歴史をたどりました。しかし、生命保険会社が存在することと、多くの人が生命保険に加入することは同じではありません。生命保険が本当の意味で日本社会に根づいたのは、第二次世界大戦後のことです。戦後の混乱から復興し、高度経済成長を迎えた日本では、生命保険は急速に一般家庭へと広がっていきました。その普及を支えた大きな存在が、家庭や職場を一軒一軒訪ねて保険を販売した女性の営業職員、いわゆる「生保レディ」です。現在ではインターネットや保険ショップ、銀行、代理店など、さまざまな場所で生命保険を契約できます。しかし、かつての日本では「生命保険は、人が人に会って売るもの」という時代が長く続きました。
今回は、戦争で大きな打撃を受けた生命保険業界がどのように再出発し、やがて日本が「生命保険大国」と呼ばれるほど保険が普及していったのかを見ていきます。
1.戦争ですべてを失った生命保険業界
1945(昭和20)年、日本は終戦を迎えます。戦争による被害を受けたのは、生命保険会社も例外ではありませんでした。多数の死亡者が発生したことに加え、生命保険会社が保有していた資産も大きな影響を受けます。さらに戦後には激しいインフレーションが起こりました。生命保険は本来、何十年という長い期間にわたって契約を続ける金融商品です。ところが、貨幣価値そのものが大きく変われば、戦前に契約した保険金額の実質的な価値も低下してしまいます。生命保険会社の経営も、極めて厳しい状態に置かれました。そこで戦後の金融機関再建の枠組みのなかで、生命保険会社も旧契約などを整理しながら事業を再建することになります。多くの会社が、勘定を分離するなどの再建措置を経て業務を再開したとされています。
つまり、戦後の生命保険業界は、戦前から続いていた事業をそのまま再開できたわけではありません。一度大きく傷ついた生命保険制度を、戦後の新しい経済社会のなかでもう一度つくり直していったのです。そして、その再建の過程で、日本独特ともいえる生命保険の販売網が形成されていきます。
2.「月掛保険」が生命保険を身近なものにした
戦後の生命保険普及を考えるうえで、重要な変化の一つが月掛保険です。
戦前の民間生命保険では、保険料を半年払いや年払いで支払う契約が中心でした。まとまった金額を一度に支払う必要があるため、必ずしも一般家庭にとって利用しやすい仕組みではありません。
ところが戦後、民間の生命保険会社でも少額の保険料を毎月支払うタイプの保険が販売されるようになります。1948(昭和23)年には、当時の主力商品だった養老保険に月払いの仕組みが登場し、これが予想以上の人気を集めました。一度に大きな保険料を払うのではなく、毎月少しずつ払う。この仕組みは、戦後の一般家庭に生命保険を普及させるうえで非常に相性のよいものでした。
しかし、ここで新しい問題が生まれます。毎月保険料を受け取るのであれば、誰かが毎月、契約者のところへ集金に行かなければならないからです。まだ銀行口座からの自動引き落としが当たり前ではない時代です。生命保険会社は、全国に存在する契約者から毎月保険料を集めるための人員を必要としました。そこで活躍するようになったのが、女性たちでした。
3.「生保レディ」の原型は、保険料を集める女性たちだった
戦後は、多くの女性が生活のために働く必要に迫られた時代でもありました。戦争によって夫を失った女性も多く、当時、戦争に関連する理由で夫を亡くした女性は数十万人にのぼったといわれています。一方、当時の女性が安定した職業を得ることは、現在ほど容易ではありませんでした。こうした社会状況のなかで生命保険業界は、女性にとって大きな就労の場の一つになっていきます。当初、生保会社が女性を活用した大きな理由の一つは、月掛保険の保険料集金でした。契約者の家庭を定期的に訪問し、毎月の保険料を受け取る仕事です。
ところが、毎月家庭を訪問していれば、当然ながら契約者との関係ができます。「子どもが生まれた」「夫が昇進した」「もう少し保障を増やしたい」、そんな家庭の変化も自然と分かるようになります。
そこで、集金を担当していた女性たちに保険募集も担ってもらう仕組みが生まれました。1951(昭和26)年頃から、こうした女性を営業活動にも活用する会社が現れ、女性営業職員の組織が急速に拡大していきます。これが、後に「生保レディ」と呼ばれる女性営業職員につながっていきました。戦後復興期の生命保険業界について、生命保険文化センターの研究でも「女性営業職員組織による事業の拡大」が大きな特徴として挙げられています。
生命保険の営業職員チャネルは、単なる販売方法として計画されたものではありません。毎月保険料を集める必要があるという実務と、戦後の女性の就労という社会背景が重なって発達した仕組みだったのです。
4.高度経済成長が「大きな保障」を必要とした
1950年代後半から、日本は高度経済成長期へ入ります。会社員の所得は上昇し、都市へ人口が集中していきました。同時に、家族の形も変わります。かつては祖父母や親族を含めた大家族が生活を支え合うことも珍しくありませんでしたが、都市部では夫婦と子どもを中心とした核家族が増えていきました。核家族では、夫が会社員として収入を得て、妻が家庭を支えるという世帯も多くなります。この家族構造には、一つの大きな経済的リスクがあります。一家の収入を支える夫が亡くなったら、残された家族はどうやって生活するのか。住宅費、子どもの教育費、日々の生活費——大家族による相互扶助が弱くなるほど、「一家の大黒柱」の死亡リスクを家庭自身で備える必要性が高まります。
そこで生命保険が、その役割を担うようになりました。高度経済成長期には都市人口の増加と核家族化によって死亡保障ニーズが拡大し、生命保険事業が高い成長を続けた時期もありました。経済成長によって保険料を払える家庭が増え、同時に社会構造の変化によって生命保険を必要とする家庭も増えた。この二つが重なったことが、戦後の生命保険急成長の大きな理由です。
5.家庭だけでなく「会社」にまで入り込んだ生命保険営業
そして、日本の生命保険普及をさらに加速させたのが職域営業でした。
営業職員が向かったのは、一般家庭だけではありません。会社や官公庁などの職場にも足を運びました。昼休みになると、生命保険会社の営業職員が会社を訪れる。パンフレットを渡したり、ちょっとした会話をしたりしながら従業員との関係をつくる。結婚した、子どもが生まれた、住宅を購入した、そんな話が出れば、「そろそろ保障を見直した方がいいですね」と保険の提案につなげる。
現在のように、消費者がインターネットで保険料を比較し、自分で商品を選ぶ時代ではありません。そもそも生命保険は仕組みが複雑です。そこで、「知っている保険会社の、いつも来ている担当者から加入する」という販売方法が非常に強く機能しました。職場で契約者本人と接点を持ち、家庭では家族とも関係をつくる。生命保険会社は、この営業職員網によって、日本全国に巨大な販売ネットワークを築いていきました。
なお、職域営業そのものが過去のものになったわけではありません。現在でも、官公庁や企業の従業員に対する職域営業は生命保険会社の営業分野として存在しています。対面だけでなくWebなどを組み合わせるなど、その方法が変化しているのです。
6.「義理・人情・プレゼント」のGNP営業
こうした人間関係を重視する営業スタイルを象徴する言葉として、生命保険業界ではかつて「GNP営業」という表現が使われることがありました。GNPといっても、国民総生産のことではありません。G=義理、N=人情、P=プレゼントです。知人や親戚などの人間関係を頼りに契約をお願いする。何度も職場を訪問して顔を覚えてもらう。カレンダーやタオルなどを渡す。そうした関係づくりを契約につなげる営業スタイルです。
現在の金融商品の販売から考えると、少し不思議に見えるかもしれません。しかし、生命保険には形がありません。加入した瞬間に便利になるわけでも、商品を手に取って性能を確認できるわけでもありません。しかも「自分が亡くなったとき」という、普段はあまり考えたくないリスクについて契約する商品です。
だからこそ、「この人なら任せられる」という営業担当者への信頼が、購入のきっかけになりやすい商品でもあります。人間関係を重視する日本社会と、生命保険という商品の特徴。この二つが組み合わさったことで、対面型の営業職員チャネルは非常に大きな力を持つようになったのです。
7.「貯蓄」から「大きな死亡保障」へ
戦後の経済成長とともに、生命保険の商品そのものも変化していきました。戦後しばらくは、保障と貯蓄を兼ねた養老保険が主力商品でした。しかし、核家族化が進み、死亡した場合に家族へ大きな保障を残したいという需要が高まると、より大きな死亡保障を比較的少ない保険料で確保する商品が求められるようになります。
高度経済成長期には、養老保険に定期保険を組み合わせた定期付養老保険が登場。さらに1970年代以降になると、終身保険を主契約として大きな定期保険を上乗せする定期付終身保険の販売が増えていきました。一家の大黒柱が亡くなった場合に、数千万円規模の保障を用意する。そんな生命保険の形が、日本の一般家庭に定着していきます。生命保険は次第に、「余裕のある人が加入する金融商品」ではなく「結婚して家庭を持ったら入るもの」へと変わっていったのです。
8.「どの家庭にも生命保険がある」国へ
生命保険文化センターは、1965(昭和40)年から一般家庭の生命保険加入状況を継続的に調査しています。その後、日本の生命保険の世帯加入率は極めて高い水準に達しました。
近年の調査でも、2人以上世帯の生命保険・個人年金保険の世帯加入率は約9割という高い水準が続いています。戦前にはまだ限られた人々の金融商品だった生命保険は、戦後数十年をかけて、日本のほとんどの家庭に存在する身近な金融商品になりました。
日本が「生命保険大国」と呼ばれるようになった背景には、経済成長だけがあったわけではありません。核家族化による保障ニーズの増加、月掛保険という払い込みやすい仕組み、死亡保障を大きくした商品の登場。そして何より、全国の家庭や職場を一軒一軒訪ね歩いた営業職員の存在がありました。
【代理店から聞いた話】今も残る「職域営業」の記憶
以前、保険代理店の方から、こんな話を聞いたことがあります。「昔は会社の昼休みになると、生保のおばちゃんが普通に職場に来ていたんですよ」今では、会社のセキュリティや個人情報管理も厳しくなり、外部の営業担当者が自由にオフィスへ出入りすることは難しくなりました。しかし少し前までは、生命保険会社の営業職員が決まった曜日に職場を訪れ、従業員と世間話をしながら関係をつくる光景は珍しいものではなかったそうです。
契約した後も、住所変更や給付金請求、保障内容の確認などがあれば「いつもの担当者に聞けばいい」。生命保険会社の窓口ではなく、担当者そのものが保険会社の顔だったわけです。
現在では「生保レディ」という呼び方を前面に出さず、「ライフプランナー」「コンサルタント」「営業職員」など、会社によってさまざまな名称が使われるようになっています。営業方法も、訪問だけではなくオンライン面談やWebでの手続きを組み合わせる形へと変わりました。それでも、企業や官公庁などを対象とした「職域」というマーケットそのものは現在も残っています。戦後に生まれた営業文化は、形を変えながら今の生命保険業界にも受け継がれているのです。
9.生保レディがつくった「生命保険大国」
戦後、日本の生命保険業界はほとんど再出発に近い状態から立ち上がりました。そこから高度経済成長によって所得が増え、核家族化によって一家の大黒柱に対する死亡保障の必要性が高まりました。そして、その需要を全国の家庭へ届けたのが、女性を中心とする営業職員でした。
毎月保険料を集め、家庭を訪ね、職場を訪ね、家族構成や生活の変化を聞き、必要に応じて新しい保障を提案する。現在から見ると非常に人手のかかる販売方法です。しかし、この「顔の見える営業」が、日本の生命保険を全国津々浦々まで普及させました。生命保険会社は単に商品をつくっただけではありません。営業職員という巨大な人的ネットワークをつくることで、生命保険を日本人の生活習慣の一部にしたのです。
一方、この成功は、日本の生命保険業界にもう一つの特徴を残しました。営業職員チャネルへの強い依存です。長い間、日本では生命保険会社の営業職員から保険に加入することが当たり前でした。実際、時代がかなり下った2009(平成21)年度の調査でも、直近に加入した生命保険の加入チャネルは「生命保険会社の営業職員」が約7割を占めていました。
しかし、その「当たり前」はやがて変わり始めます。外資系生命保険会社の参入、保険ショップの登場、銀行窓口での販売、インターネット保険。そして、その大きな転換点となったのが、1990年代に進んだ保険の自由化でした。
次回は、日本の生命保険業界の競争環境を大きく変えた「保険自由化」について見ていきます。


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